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ラッキーパパ

Author:ラッキーパパ
向日葵のように明るかった妻が突然倒れました。5人の子どもたち(T:18、Y:16、K:13、ラッキー:犬1…全員♂・年齢は当時 2016年より猫1が参加)と共になんとか生きています。詳しくは「はじめに」で。

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トイレにカギをかけるようになった日 【2010-03-20(土) 23:58】
今日は、新潟から妻の両親と弟さんが来てくれた。
夫である私とはまた違った悲しみや、寂しさや、不安や、希望があるのだと思う。

     *

今は夜の10時。2人だけの病室。
心拍数も、血圧も、呼吸も、すべて正常。
ただ、少し熱があるのかもしれない。氷枕を抱き抱えるように寝ていた。

肩、肘、手指、膝、足首、足指(とくに親指を重点的に)と、間接を中心に一通りマッサージ。

「またラッキーと一緒に散歩しようね」

そして、今夜も想い出話の続きを・・・。

     *

憶えてる? 
一緒に暮らし始めて間もない頃。

私がトイレで自然の摂理に身を委ねながら本を読んでいると、突然あなたがドアを開けて入ってきて、私の前に味噌汁の入ったお玉を突き出したんだ。

「え?」と驚く私。

「アジミ!」

「は?」

「お願い、味見して。結構イケルと思うんだけど」

そう言ってあなたは、戸惑う私の口に味噌汁を強制的に流し込んだ。

「どう?」

「あ、おいしい!」――状況はまだよく飲み込めなかったけれど、飲み込んだ味噌汁はおいしかった。

「ね、そうでしょ。オッケー! じゃ、ゆっくりがんばってね」 バタン!

突風が過ぎ去った後、私のなかで、何かが変わった気がした。
頭の後ろのほうでパキンと、殻が破れたような音。
読書を再開しようとしても、頭がグルグルしてなかなか内容が理解できない。
とりあえず、いくら夫婦でもトイレにはカギをかけたほうが良いかもと思っていると・・・また、ドアが開いた。

「ゴメン、ちょっとシャツ脱いで。洗濯機回しちゃったから」と言って、あなたは私のシャツを、まるで器用な追いはぎのように一瞬でスルッと奪い取って行ったよね。

あのとき私は、ほぼ裸の状態でトイレに放置されたんですけど。
その自分のおかれた状況がおかしくて、思わず笑ってしまったっけ。
なんでか分からないけれど、嬉しかった。
「ああ結婚したんだ」って気がしたんだ。

そのとき以来、私はトイレにカギをかけるようになったけれど、それは落ち着いて本を読みたいからであって、あなたの侵入を恐れてではないよ。

毎日、そんなことの連続。
あなたのおかげで私はずいぶん丸くなった。
そう、心身ともに。

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50の坂 【2010-04-15(木) 23:06】
今日は私の誕生日。
ついに50の大台に乗った。

妻より3つ下だけど、いつも私のほうが上に見られていた。

妻は若く見られることが嬉しくて、「私って若く見える?」と、1週間に1回ぐらいは確認してきた。

「見える、見える!」――もう何度同じように応えただろう。

「何歳ぐらいに?」――これも、いつものこと。

「30代でもだいじょうぶかもよ」

「まさか・・・」

「いや、セーラー服だって着れるかも」

「アハハ。コスプレしたら、グッと来る?」

「来る来る」

「ヤメテよ」

「セーラー服どころか、ランドセルだっていけそうだ」

「また始まった・・・」

――古典落語のように同じパターンの繰り返し。だけど、そのつどおかしくて笑ってしまう。

あんまり何度も同じことを聞くので、ときどき(いや、いつも)こんなふうにひにくっぽく言ってしまっていたけれど、ほんとに妻は若々しくて、かわいらしい人だった。(もちろん、今もだよ)

「自分がもう50を過ぎたなんて、ぜんぜん思えないの。気持ち的には、20代、30代の頃とあんまり変わっていないような気がする」

「そうだね。子供のころ50歳といったら相当な年のように見えたけど、自分がそうなってみると、まだまだミジュクモンだよね。あなたはもう完成の域に達しているけどさ・・・」

「それ、矛盾してるでしょ。さっきはランドセルとか言ってたくせに」

「いや、見た目は若くても、内面は立派に成熟してるってことだよ」

「ランドセル背負った子が成熟してたら、ヘンでしょ!」

――冗談のように言いながら、でもほんとに私は妻を人格的にも尊敬していた。
なんて素直な人だろうと、その澄んだ心にいつも感動していた。

子どもたちにも、「母さんのような人と結婚できるように、君たちも立派な男になれ」と教育してきた。

「父さんは、それだけ立派だったってこと?」

「それとこれとは、別の話・・・いや、父さんは顔で勝負できたから・・・」

     *

さて今日は、冬に戻ったような寒い1日。

いろいろあったけれど、50歳の誕生日をこうして妻と共に迎えることができた。

ここにはケーキも、ローソクも、Happy Birthday♪も、定番のチラシ寿司やカラ揚げもないけれど、最愛の妻が傍にいる。
それが病室のベッドであっても、たとえオメデトウの言葉がなくても、なんだか不思議と幸せな気分がこみ上げてくる。

「いよいよ私も、あなたと一緒に50の坂を上り始めるよ。60の坂も70の坂も80の坂も、一緒に上ろうね」

サラ・ブライトマンのアヴェ・マリアが、心に染みる夜。

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人生への招待状 【2010-04-19(月) 23:04】
「ここの子どもたちは、みんなちゃんと自分の居場所がある。自分がここにいて良いんだと当たり前のように思っている。ケンカしても叱られても、それは変わらない」――ウチの子どもたちをみて、Tさんはそう言った。

中高校生になっても、男の子3人がジャレ合い、競って親の近くに座り、会話をしようとする彼らを見て、「絶滅種に近い存在」と評した人。妻の大親友。何時間も長電話をする相手。

「この子たちは、みんなしっかりと"招待状"を持っている。自分が望まれて生まれてきたということを知っているし、毎日毎日それを実感している」

「それって、当たり前のことだと思うけど・・・」と私。

「この家では当たり前なんだけど、他ではそうでもないところが多いんじゃないかなあ・・・」

――たしかに、招待状はもらっても、多くの場合、何らかの条件付きだったりするかもしれない。

「いうこと聞いたら」とか「もっと勉強できたら」とか「良い子限定」とか・・・。

本来、人生への招待状は、無条件であるはず。
まず無条件で受け入れているという大前提、安心感があって、そこからより大きな成長を願うというのなら分かるけど、「招待するためには、こうしないと」というのは、順序が逆な気がする。

「ママは、パパから招待状をもらってすごく幸せだったのが分かるし、パパもママから招待状もらってたでしょ」とTさん。

「たしかに・・・」

「この家には、招待状がいっぱいある。ラッキーだって持ってるよ、最高の招待状」

招待状・・・人は人生の中で、いろんな招待状をもらう。
私にとって一番嬉しい招待状は、間違いなく妻からのものだ。
そして私は既にそれを手にして、20年間妻と共に生きてきた。
もちろん私も妻を最高のVIPとして、自分の人生に招待していた。

そうしていつの間にか、長男が生まれ、2男が生まれ、3男が生まれた。
3人ともその手に招待状をもっていた。
それは、妻と私を、それぞれ母と父として歓迎するという、私たち二人への招待状だった。

いま妻は、ゆえあって長い休息に入っているけれど、私からの招待状も、子どもたちからの招待状も、無条件・無期限のもの。
どんなに時間が経っても、その輝きを失うことはない。

いつでも戻っておいで。いつまででも待っている。

     *

急転直下、今週中にでも転院することになりそうな雲行きです。

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夫婦の会話? 【2010-08-19(木) 23:25】
仕事がひといきついたので、昼から妻のいる病院詣で。

ぐっすり眠っているようすだったけれど、ツメを切ってあげていたら、いつの間にか眼を開けてじっとこっちを見ている。

「しかし、あなたのツメは丸まっていて切りにくいね。そのうえ深爪しても、何にも文句を言わないし」

(そんなこと言わないで、上手に切ってね)

「あれ、話ができるの?」

(アナタの中にいるワタシが話しているの)

「私の中にいるあなたが、私と話しているということ?」

(だいたい、そう)

「じゃあ、あなたの中にいる私は、何をしている?」

(いつもどおりよ)

「なんだよ、それ」

(うーん、うまくせつめーできない)

「まあいいか、話ができるんだし。ところで、この前、車イスで散歩したの覚えてる?」

(Gさんも一緒だった)

「そうそう」

(ちょっと暑かった・・・でも、楽しかった)

「また散歩行く?」

(今日は、ここでゆっくりお話しない?)

「いいよ」

(今までで一番楽しかったのはいつ?)

「ずっと楽しかったけど、やっぱり結婚してから子どもが生まれるまでの間かなあ」

(どうして?)

「もちろん子育ても楽しかったけれど、それなりに責任も重くて、二人だけの頃の気楽さとは、ちょっと違ってたからね」

(あのころ、毎朝、駅まで2人で手をつないで歩いたよね)

「そうそう、あなたも臨月まぢかの大きなお腹を抱えながら、まだ勤め人だった私を見送ってくれた」

(アナタはいつも面白い話をして、ワタシを笑わせてくれた・・・)

「あなたは何を話してもすぐ笑う人だった。歩きながらでも声をあげて笑うから、ちょっと恥ずかしかったけどね」

(宇宙の星の数とか、時空のゆがみとか、リョーシロンとか、ゲンショーロンとか、ワケの分からない話も・・・)

「そんな話もしたっけね」

(「人はみんなそれぞれ”世界”や”宇宙”をもっていて、そこには誰も入り込めない。だけど、私たちはお互いに扉を開いて、同じ世界をつくろうね」って、言ってた)

「アハハ、ほんとにワケの分からない話だ」

(ワタシも、あの頃、楽しかった。でも、一番幸せだったのは、また別だよ)

「いつ?」

(また後で教えてあげる。でも、ワタシはアナタの世界に入れたの? アナタはワタシの世界に入れた?)

     *

妻が元気な頃、顔と顔をくっつけて、お互い相手の眼の中に映る自分を見つけて、二人で大喜びしたことがあったっけ。



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思えば何度も妻に恋をした 【2010-10-01(金) 16:53】
思えば、結婚して一緒に暮らしてから今までの20年間、私は妻に何度も恋をした。

もともと好きだったけれど、どうせこれからもずっと一緒にいるのなら、好きになればなるほどお互いに幸せになれると思い、自分のなかの恋愛感情をどんどん加速しようとした。

どこまでも深く愛し合うことが、社会的にも、友人からも、親族からも、お互いの先祖からも、未来の子どもたちからも、そして神さまからも祝福された二人――私たちは、そんな考え方を共有していた。

実際、私たちが仲良くすることをみんな喜んでくれた。
とくに3人の子どもたちは、私たちが一緒にいると、先を争ってその夫婦の間に入り込もうとした。

愛すれば愛するほど、相手が素晴らしく、可愛らしく、いとおしく思えてくる。
お互い、最高の相手、理想の相手と結婚できたという確信があった。
傍から見れば、それは幻想でしかないのだろうけれど、私たちの中では、それは何よりもたしかな生活実感だった。

     *

初めての子(長男)が生まれたのは、一緒に暮らしてから1年3ヶ月後のこと。
その奇跡的なカワイらしさに、二人ともオヤバカ全開だった。
こんなに可愛いんだったら、将来、タイヘンなことになってしまうと心配したほど。
ほんとうに世界一、可愛い子に思えた。そのときは・・・。

いまその頃の長男の写真を見ると、まるまると太ってマンガのような顔をしている。
たしかにカワイくはあるけれど、どうひいき目に見ても世界一どころか日本一どころか県内、市内一でさえないだろう。
隣近所にもザラにいるようなレベルだと思う。

そのとき私たち二人は、「可愛いから愛する」のではなく、「愛するから可愛い」のだということを悟った。
世界一愛していたから、世界一可愛い子に見えたんだと。
そして、可愛いから、もっと愛するようになる。

それはたしかに幻想ではあり、オヤバカな思い込みではあるけれど、私たちの心のなかでは紛れもない真実だった。

     *

大切な人だから愛するのではなく、愛するからこそ大切な人。
世界一愛しているから、世界一大切な人であり、かけがえのない人になる。

私の妻がこれからどうなろうと、世のほとんどの人にはじっさい何の関係もないことかもしれないけれど、私にとってそれは、人類の未来よりも大きなことに感じられる。

一緒になってからずっと、妻は、私にとって世界そのものだったし、今も、そしてこれからもずっと、そうであり続けるに違いない。

ずいぶん前、それぞれどちらのほうが相手を深く愛しているかということを話したことがあった。
お互い、相手の愛の大きさ、深さを感じていたから、引き分けということにした記憶がある。

いま思えば、私は完全に負けていたような気がしてならない。


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寂しさがやって来る方角 【2010-10-09(土) 12:13】
3連休の初め。朝から冷たい雨が降って肌寒い1日。

いつもなら、妻が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、シナモンをかけたチーズをかじりながら、撮りためた映画でも観ながら、2人よりそっていたはずの時間。

こんな日は、独りでいることの寂しさが、いろんな方角から迫ってくる。

妻が好きだった花柄ペアのティーカップ。

キッチンのハンガーにかかったままのエプロン。

妻がかわいがっていた鉢植えの植物たち。

写真立ての中で真夏の向日葵のように輝く妻の笑顔。

深く愛していたから、その相手の不在がこんなに寂しくなる。

いや、妻がいないことが寂しいのではなく、逆につながっているからこそつらいのかもしれない。

いつも訪問するブログに、こんな文章があった。

「こんなに涙が出るのは、夫と離れてしまったからじゃないんだってわかった。繋がっているから悲しいんだ。こんなにしっかり繋がっていなければ、離れていても悲しくなんてないもんね。ぎゅっと固く結ばれてる、その繋ぎ目の所が痛いんだ。」 (「終わりははじまり」9/22付)

ほんとに、ほんとに、ほんとに、そうなんだ・・・と思った。

部屋中のあちらこちらのものが、妻につながっている。

そこに触れるたびに、そのつなぎ目から感傷がやってくる。

それは、つらいことではあるけれど、でもその痛さによってこそ妻とのつながりも感じられる。

その痛さの先に、懐かしく優しい思い出がひろがっているんだ。

     *

雨のせいで朝の散歩がスルーされて退屈モードのラッキーが、音の出るオモチャを持って遊びの要求をしてくる。

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噛むたびにピーピーと鳴る音が、あまりに現実で明るいので、私は秋の感傷から引きずり出されてしまう。

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幸せのイメージ 【2010-10-16(土) 23:59】
妻の病院へは明日、日曜日に行く予定だったけれど、仕事の打ち合わせが入ってしまったので、急遽、今日行くことに。

2男と3男に声をかけたら意外にも「行く!」と即答!
母に会いたいのか、行列ラーメン(しかも特盛)付きだからか・・・。

3男は先回のリベンジ?(→10月11日の日記)
頭を打たないように、慎重に車に乗った。

もちろんラッキーも一緒。
ちなみに長男は予備校の自習室。

病院に向かう途中にある大きな公園で寄り道。
渋滞でストレスがたまり気味のラッキーを遊ばせた。

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(いつのまにこんなに大きくなったんだろう…)

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2男と、3男を見て、しみじみとそう思った。

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妻が大好きだった自然林が広がる公園。

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初めて来た頃は、3男はまだベビーカーに乗っていたっけ。

     *

病院に着いてすぐ、妻を専用の車イスに乗せ、病院の周りを散歩。

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秋の優しい日差しのなか、母の車イスを押す子どもたち。
今年の初めごろには、想像もしなかった光景。

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だけど、あまりに普通で自然な感じがして、私のほうがとまどってしまった。

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子どもたちに囲まれて、心なしか誇らしく、なんだか自慢気にさえ見える妻。

  そうだね。みんな、あなたが生んで育てた子どもたちだ。
  そういえばラッキーでさえ、自分が生んだような気がするって
  あなた、言ってたよね。
  「私は身に覚えないけど。しかも種が違うし」と言ったら
  「聖霊によって身ごもったの」って。
   ――ああ、だからラッキーは私たちの救いなんだね。

     *

いつも思うことだけど、私がそれを受け入れさえすれば、たとえこんな状況でも幸せのイメージが漂ってくる。

そんなときは、現状を脱出しなければという思いと、現状を受け入れようという思いが、微妙に交錯するのです。

人気の記事 | 【2010-10-16(土) 23:59】 | Comments:(6)
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告白(その1) 「非・人間宣言?」編  【2010-10-18(月) 23:58】
今から20年ぐらい前、2人で一緒に暮らし始めて1ヶ月が経ったぐらいの頃のこと。

「ココロもカラダも、自分のことをぜーんぶ分かってもらって、それでぜーんぶ受け入れてもらってるって、なんだかスゴーイ安心感があるの」

「そうだね。私も同感!」

ココロもカラダもお金も希望も未来も喜びも悲しみも、すべてを明け渡し共有し合う関係――2人で暮らしていくなかで、夫婦とはそういうものだという実感を深めていた。

「私たちって、なあんにも隠し事ないよね。最高の夫婦関係だよね」と妻。

そのときの表情が、あまりに満ち足りて、昔の少女マンガみたいに瞳がキラキラしておかしかったから、私はちょっとからかってみたくなった。

「・・・」

「隠し事、ないよね?」

「・・・」

「なんかあるの?」

「じつは・・・」

「え?」

「驚かないで聞いてね。じつは・・・いや、やっぱりまだ止めておこう・・・」

「なによ、すごく気になる。早く言ってよ」

「じつは・・・」

妻は、心臓の音が聞こえてきそうなほど、ドキドキしているようす。

「私、ほんとは人間じゃないんだ」

「はあ? それどういう意味?」

「宇宙人」

「ナニそれ?!」大笑いする妻。

「ばかみたいな話だけど、ほんとの話だよ」

「またあ、冗談言わないでよ、バカバカしい!」

「でもね、ほんとなんだ。今まで黙っててゴメン」

私がいつになくマジメな顔で言うものだから、妻もちょっとだけ不安になってきたようす。

「じゃあ、どこから来たのよ?」

「M78星雲」

「アハハ!! それ知ってる! ウルトラマンの故郷でしょ」

「ドラマ上はね。正義の味方の星として地球人に良いイメージをもってもらうために、ウルトラマンは、私たちがメディア戦略の一環として作りあげたんだよ」

――私の深刻な顔に、妻の笑い顔が引きつりだした。
まさか、こんな話を信じるなんてありえないと思っていたのに、この人、少し信じ始めている・・・そう思うと、私もワルノリをやめられなくなってしまっていた。
とくに話の展開を考えていたわけでもないのに、口から出まかせでいろんなことをしゃべりまくった。

「『未知との遭遇』や『ET』という映画があったでしょ。あれも、それまで『宇宙人=侵略者・怖い』というイメージを変えるために、私たちが作った映画なんだ。スピルバーグは、私たちの仲間だよ」

「じゃあ、あなたもあの映画のETみたいな姿なの?」

「いや、あれはドラマ上の演出。姿形はこのまんま。人間と同じ」

「それ、ほんとにほんとの話?」

「ほんとに、ほんと」

――今にも泣き出しそうな妻の顔があまりにカワイくて、もうちょっとだけ先まで行ってみようと思った。
ああ、それが悲劇の始まりだったのです。

     <続く>

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告白(その2)  「妻を泣かせた日」編 【2010-10-20(水) 22:04】
久しぶりに平日の昼から病院に来ることができた。
今日は原稿を書くだけの仕事だから、ノートPCがあれば、ありがたいことに妻の隣でも作業できる。

病室に入ると「リハビリ中」の札。

リハビリ室では、いつものイケメンPT(理学療法士)のSさんと助手の若い女性が、妻を座らせたり立たせたりしていた。

Sさんは、妻を抱きかかえながら、「お顔を見ると、肌がキレイで、だんだん若返っているような感じですね。あまり日に当たってないからでしょうか」と言ってくれた。

「いや、きっとリハビリのおかげですね」と私。

「ええ? リハビリは、関係ないと思いますよ」とSさん。

「それじゃ、たぶん若い人たちに囲まれているからかも・・・」

――何はともあれ、今日も妻はリハビリに励んで(励まされて)いた。

その疲れで今はぐっすり眠っているようす。

仕事の原稿も区切りがついたので、こうして妻のベッドの横でこのブログを書いています。
(UPは夜になると思うけど)

     *

<先回の続き>告白(その2) 「初めて妻を泣かせた日」編 です。

宇宙人だなんて話、まさかホンキで信じるとは思わなかった。
でも、この人なら、そんなことさえも信じてしまうのかもしれない…どこかそんな気もしていた。

はじめは軽い冗談のつもりだったのに、相手が信じ始めていることに、ちょっと驚きつつも、多少の快感?もあって、そろそろ種明かしをしないとと思いつつも、さらに先に進んでしまったのだった。
(そもそもタネなんてない、ただのウソだし)


「じつは、地球上には私のような宇宙人がたくさんいて、なんとか滅び行く地球を守ろうと働いているんだよ」

「じゃ、なんで私と結婚したのよ?」…ちょっと涙目。

「私たちと一緒に活動できるココロのキレイな地球人を探していたら、あなたと出会ったってわけ。ほんとは結婚はダメなんだけど、好きになってしまったから、どうしようもなかった」

ああ、もうこのあたりで止めよう・・・と思いながら、とにかく「星間航法」のことや「宇宙平和」のことなど、口から出任せでいろんな話をしたような気がする。

妻の顔は、どんどん深刻になっていった。自分はとんでもない使命(つまり地球を救って、宇宙平和に貢献する夫を支える?)を担わされてしまったと思い始めているらしい。

「私は、あと半年ぐらいで、一度、故郷の星に帰らないといけないんだ。でも、また帰って来るから心配しないで」

「いつ帰って来るの? そんな遠くに行ったらもう帰って来れなくなるよ」…かなり涙目。

「だいじょうぶ、帰ってくるって。さっき星間航法の話したでしょ」

「ゼッタイいや! 行かないで! ずっと私の傍にいてよ!」

…ああ、とうとう大泣きしてしまった。ようやく私は、”あれ、ちょっとマズイぞ”と思った。

「どうしても行くんなら、私もついて行く!」…駄々をこねる子どものよう。

「アハハ(と笑ってごまかしながら)、ゴメン、ジョーダンだよ、ジョーダン! 私が宇宙人なわけないじゃん」

「ウソ! あなたは宇宙人よ。私、なんとなく分かってた・・・。そんな気がしてた」…(え? ど、どこが?)

「私、宇宙の果てまでだってついて行くから!」…どこか遠くを見ているような眼差し。

(ああ、なんかもうめちゃくちゃ・・・まるで古臭い映画のワンシーンのよう)

「ほんとに冗談だってば。私は普通の人間だよ」

「ウソ! 宇宙人」

「人間だって!」

「ウチュウジン!」

「ニンゲン!」

「じゃ、ショーメイしてよ」

「…うーん、ええと、納豆が好きだ!」

「ナニよ、それ?」

「宇宙人が納豆を好きなわけないでしょ?」

「宇宙は広いから、そういう宇宙人だっているかもしれないじゃない」

「あのね、そういう問題じゃないでしょ。とにかく私は人間で、あなたの夫!」

     *

――ああ、こんなこと書いていたら、延々と続きそうなので、このあたりで止めよっと。

漫才みたいで作り話のようなやりとりだけど、わが家庭草創期の頃に「本当にあった怖い話」です。

なんとか「人間」として認めてもらってからも、その後1ヶ月ぐらいは、ちょっと離れた所からじっとこっちを見ている妻の視線を感じていました。
そのうち正体を現すんじゃないかと、監視されていたんだと思います。

――長々と読んでいただいたのに、つまらないオチでスイマセン――

     *

それぞれ全く別々の人生を生きてきた2人が一緒に暮らすということは、オモシロくもあり、オドロキもあり、ですね。

そういえば同じように、衝撃的(笑撃的?)な事件について書いたのが「トイレにカギをかけるようになった日 (2010年3月20日)」という記事です。


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母は強し(恐し?)! その1 【2010-10-27(水) 19:38】
こんな独り言のようなブログ、いつも読んでいただき、ほんとうに感謝です。アクセス数が増えていたり、ランキングが上がっていたりすると、わけもなく元気になったりします。

ところで、いただいたコメントを見るにつけ、どうもウチの妻のイメージが、「ピュアで可愛らしく可憐で明るくて優しい」という方向に、ちょっと偏向?しているようが気がしないでもありません。

たしかにそれは、私から見ると、すべて真実ではあります。真実ではありますが、じつは、それとは全く別方向の一面ももっているのでした。ニンゲンって奥深い。

そのエピソードをいくつか書いてみます。

     *

3人の子どもたちのうち、長男(T)と2男(Y)は、小学校に入った頃から卒業するまでずっとイジメにあっていた。

Tは口数が多くナマイキなところがあったし、Yは、いつもボーっと何か空想しているようで周りとなじまなかったので、そのあたりがイジメの要因だったかもしれないけれど、より直接的な理由は、我が家の教育方針であった次の2点が考えられた。

 ●友達は大切だけど、意味もなく群れないこと。
  独りでいることは決して悪いことではない。

 ●携帯型ゲームは持たせない。
  当時はゲームボーイが主流。持っていることが普通だった。

  ※なぜそうしたかは、とりあえず置いといて。また別の機会に。

とくにYに対するイジメはきつかった。
いつも何か面白いことを想像してニコニコ(ヘラヘラ?)笑っているような感じだったのが、高学年になるにしたがって、表情が暗くなっていった。

たしか6年生の頃のある日、少し前まで担任だった先生が退職(転勤だったかも)するということで、教え子とその親が集まって送別会を開いたことがあった。

Yは、また仲間はずれにされるのがいやで、あまり行きたがらなかったけれど、とてもお世話になった先生だったので、母子で参加することになった。

パーティ会場。いろいろなスピーチが終わり、立食形式で食事が始まると、子どもたちもそれぞれグループを作り、騒ぎ出す。

あるグループの何人かが、Yに向かって、何かいやなことを言った。

Yはじっと我慢。

妻は、Yが自ら状況に立ち向かえるように、初めのうちはようすを見ていたらしい。

イジメはどんどんエスカレートして、とうとう「シネ」という言葉まで出てきた・・・。

プッツン!――妻は、キレタ。

「シネとは、どういうこと!? ★※@彡¥&%$#!?」 みんなの前で数分間のお説教。

キレタとはいえ、自分の家で子どもをどなるよりも、ずっと冷静だったと、後でYは証言した。

――せっかくのパーティをぶち壊してしまった・・・らしい。

その後は気まずかったとか、先生がうまくフォローしてくれたとか・・・。

もちろん、その場には相手の母親もいたけれど、それなりにナットクしてもらったらしい。

帰って来たとき妻は、「ああ、スッキリした!」という感じで、涼しい顔で武勇伝を語ってくれた。

Yのほうは、さすがに恥ずかしかったけれど、でも、やっぱり嬉しかった、誇らしかった、と言っていた。

もちろん私は、拍手喝采! 大笑いしながら、話を聞いた。


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母となった日・父となった日 【2011-01-13(木) 22:40】
今日は、長男の誕生日。

妻が母に、私が父になった日。

19年前の1月13日は月曜日だった。

里帰り出産で、妻は実家のある新潟にいた。

陣痛が始まったのは、たしか1月10日(金曜日)の夕方ごろ。

入院の知らせを聞いた私は、仕事を早めに切り上げて、新幹線で東京から新潟に向かった。

予定日の7日は過ぎていたし、この土日あたりに生まれてくれれば立ち会うことができると期待していたら、その通りになり、生まれる前からなんて親孝行な子だろうと思った。

急がないともう生まれてしまうかも知れないと思うと、時速250Kmで疾走する新幹線もノロノロ運転に思えて、気が焦った。

携帯電話など、影も形もない時代。もちろん、メールで連絡なんてこともできない。

急いで産院に駆けつけると、妻はことのほか穏やかな様子…。

「陣痛、弱くなっちゃった。もう少し時間がかかりそう。ゴメンネ」と、妻は笑った。

「ああ、でも間に合ってよかった。もう生まれているかと思ったから」

     *

結局それ以降、陣痛はどんどん弱まり、翌11日になっても全く生まれる気配なし。

12日昼、やはり変化なし。

夕方、変化なし。

翌13日(月曜日)は朝10時からどうしても抜けられない打ち合わせがあったため、私はそろそろ帰らなければと思っていた。

夜7時頃。寂しそうな不安そうな妻の顔に帰るに帰れずにいると、「あ、来た!」と妻がお腹を押さえながら言った。

どうやら陣痛が始まったらしい。

1時間ぐらい経っただろうか、痛みは次第に強まってきていた。

私は妻に言われるまま、背中をさすったり、水を持ってきたり、オロオロしていた。

看護士さんたちが余裕な感じなので、ちょっとムッときた。

苦しむ妻と、生まれ来る子どもへの期待と、何もできないことへの苛立ちと、迫る終電時刻への焦りなどで、頭の中がぐるぐるしていた。

そうこうしているうちに、いつの間にか終電のタイムリミットは過ぎて、もう帰れなくなってしまった。

こうなった以上は、翌朝の始発に乗り、直接打ち合わせ場所に行くしかないと、腹をくくった。

子どもが生まれ、妻が母となり、私が父となる、その時その場所に共にいたい、ずっとそう思っていたから。

それからも、陣痛は弱まったり、強まったりを繰り返したけれど、なかなか決定的な状況には至らぬまま、時が過ぎていった。

3日間続いたお産で、妻は、精神的にも肉体的にも、もう限界だった。

「お願い、帝王切開にしてもらって」と、ずっと、自然に生みたいと言っていた妻が、そうもらした。

「わかった。ドクターに相談してみる」

妻のようすを説明しながら、私は別室でドクターに帝王切開の是非を打診した。

するとドクターは「それは最終手段にしましょう。赤ちゃんの心音はとてもしっかりしていて元気です。自然に生まれたがっているようです。お母さん、もう少しがんばれるように励ましてあげてもらえませんか」と言って、真剣に笑った。

「わかりました」
自然分娩のほうがハイリスクなのに、自らのポリシーに従ってそう判断した若いドクターを、私は信じようと心に決めた。

とは言っても、私はただ決意するだけで、実際に苦しむのは妻だった。

「T(男の子と分かっていたので既に名前を決めていた)は、自然に生まれたがっているって。元気だって。だからもう少しがんばろう。一緒にいるから」そう言って私は妻を励ました。

「もう限界だって言ったのに! お願いだから、早く切って出してもらってよ!」――私があまりに気軽に「がんばろう」なんて言うものだから、妻は怒って、どなるように私に言った。

それでも私は、ただただ、背中をさすりながら励ますしかなかった。

すると、日が13日に変ったあたりから、急に陣痛が強まり、いよいよ分娩台に移動することになった。

分娩室。

私は、妻の頭のほうに立ち、苦しむ妻の手を握り、頬をさすり、「ヒ、ヒ、フーッ」と、呼吸法のリズムを一緒にした。

目がうつろになりながらも、私と一緒に呼吸法を繰り返す妻。

妊婦教室で聞いてきたあと、一緒に練習した「ヒ、ヒ、フーッ」

「もう、頭が見えて来ましたよ」――看護士さんが言った。

その声で、妻は生き返ったように、目に輝きと自信が戻ってきた。

「もうすぐ、パパになるね」と妻が言った。

「あなたも、もうすぐ、ママだね」

1992年1月13日0時52分。

苦しみや喜びや感謝や感動が交錯するなか、妻と私の長男が生まれた。

じつに3日間に及ぶ難産だった。

出産に立会い、女性・母の偉大さ、生命誕生の素晴らしさを知った。

すべての人が、もちろん私自身も、こうして命懸けで神聖な儀式を経て生まれてきている。

ほんとうにほんとうに、すごいことだと思う。

     *

記念すべきこの日、妻の所にいけなかったのが、少し残念です。


人気の記事 | 【2011-01-13(木) 22:40】 | Comments:(0)
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1年の区切り 【2011-01-15(土) 13:16】
1年前の今日、昼過ぎ、妻は浴室掃除の最中に倒れたのだった。

あれから1年も経ったなんて、とても信じられない。

あまりにも、いろんなことがあった。

1月。
生死をかけた緊急大手術。その最中に長男はセンター試験。
突然の出来事に、パニック状態になりそうだった私を、たくさんの人が支え、助けてくれた。

子どもたちが思いのほか明るく元気で、普通に日常を生きているのに驚く。
長男曰く 「子どもは適応力が高いから」
2男曰く 「これは何かのメッセージだと思う」
3男曰く 「誰がご飯作ってくれるの?」


2月。
生命が守られたことに安堵しつつ、意識回復を今か今かと待つ日々。
安定したかと思えば、高熱が出たり、下痢をしたりの繰り返し。

妻に任せっきりだった経理の仕事が混乱状態に。
訳が分からないまま請求書等を放置しておいたため、いろいろな方面から督促状が届く。

そんな状況のなか、長男は2次試験に向けて勉強を続けた。
実家から母が家事の応援に駆けつけてくれた。


3月。
気管切開をしたことで感染症のリスクが減り、熱を出すことも少なくなった。
病状は安定したけれど、意識レベルは変らず。

それでも、指が動いたとか、涙を流したとか、ちょっとしたことに希望を見出し、体をさすり声を掛け続けた。
この頃、転院先探しに翻弄される。

会社と家計の経理作業も大変。
税金や保険料、公共料金等は、赤紙(督促状)が届いてから支払うべき内容を知るというパターンが定着。


4月。
意識を失ってから3ヶ月が経過、遷延性意識障害という診断がなされた。
医学的には、意識回復の見込みは極めて低いということ。

22日、不思議な導きで巡り合った今の病院に転院。
しっかりとリハビリをしてくれる所なので希望が見えた。

その一方で私自身が体調を崩し始める。
突然襲うみぞおち辺りの激痛。子どもたちの不安そうな顔。
以前、妻が冷えから来る症状だと言っていたので、妻がそうしてくれたように、子どもたちは私の体をドライヤーで温めてくれた。


5月。
4月までは毎日のように病院に通っていたけれど、車で1時間の所に転院したため、1週間に1~2回程度に。
母も実家に戻り、家事を手伝っていた長男も予備校に行き始めたため、私は仕事と家事と病院通いでオーバーフロー状態。

ついに20日、私自身が胆石からくる胆嚢炎で緊急入院。
奇しくも妻と同じ手術室で全身麻酔による胆嚢摘出手術をした。

10日間にわたる入院中、我が家は母も父もいない状態に。
おまけにちょっとの間も独りにできない分離不安症のラッキーもいるし。
それでも、友人たちが泊りがけで助けてくれた。
この間、妻も栄養補給のための胃ろう手術を行なった。


6月。
手術の時に剃った髪の毛が伸びて、眼を開いていると見た目はほとんど元通りの妻の顔。
もうすぐ帰ってくると思いながら過ごしてきたけれど、しばらくはこのままの状態が続くということも受け入れて、心の準備や、家のこと仕事のことの整理をしなければと、気持ちを現実のほうに切り替えた。

妻の服や化粧品等を整理した。
もちろん、回復への希望は今なお失ってはいないけれど。


7月。
妻は眼を開いているときは、じっとこちらを見つめてくれるので、どうしても話が通じているような気がしてならなかった。
何分も何十分もいろんな話をした。
出会ってから今までの、夫婦の、家族の歴史を振り返り、一緒に懐かしんだ。

会社のほうもようやく平常に戻り、子どもたちも、母親不在のなか、驚くほど普通に明るく暮らしていた。
以前から会話の多い親子だったけれど、部活のこと、勉強のこと、将来のこと、人生のこと、世界情勢のこと、そして母のことなど、より一層、話し合う時間が増えた。

友人が有志に声をかけて千羽鶴を折ってくれた。勇気づけられた。


8月。
異常な暑さが続く。
妻が大切にしていた庭の畑で、トマトやキュウリやゴーヤやナスやピーマンを収穫。
ふとしたキッカケでいろんな場面での妻の姿が目に浮かび胸が苦しくなる。
目の前に妻がいるのに、そこにはいないような感覚。
妻のことがどんどん思い出になってしまっているようで、つらかった。

ラッキーと散歩をしながら、つい独り言のように妻に話しかけている自分に気がつき、うろたえてしまう。
暑さのせいか、寂しさや哀しさのせいか、幻想が迫ってきそうな感じだった。


9月。
少しずつ涼しくなったので、病院に行く度に妻を車イスに乗せて散歩を。
一緒に歩きながらいろんな話をした。

妻が住む夢や心の世界と、子どもたちのいる現実の世界があって、私はそこを行ったり来たりしているような感覚。
精神的に不安定になりがちな私を、多くの友人が励ましてくれた。


10月。
ブログを通してコメントやメールを寄せてくれる人たちと交流するなかで、不思議と元気を取り戻すことができた。
人はみな、それぞれ哀しいことやつらいことを抱えながら、それと共に生き、乗り越えたり挫折したり、また立ち上がったり…を繰り返しながら前に進んでいるんだと思った。

その一方で、このブログを通して、私自身が全く無関係な人と間違われたりして、中傷されたことがあった。
勝手に思い込んで平気で人を傷つける人がいるかと思えば、見ず知らずの私たち家族のことを心から励ましてくれる人もいる。
人間っていろいろだねと、妻とも、子どもたちとも語り合った。


11月。
妻と一緒にラッキーを連れて毎日のように散歩をした森の木が色づき、やがて葉が散り始めた。
この秋は、いつになく寂しさがこたえたけれど、無邪気にはしゃぐラッキーが、私を癒してくれた。

妻は、首がすわったり、手や脚やお腹の筋肉に力が入るようになり、少しずつではあっても、リハビリの効果が出てきているようすだった。


12月。
クリスマスも、年越しソバも、男たちだけで祝った。
とにかくすさまじい1年だった。

子どもたちの子どもたちの子どもたちの、そのまた子どもたちへと、我が家の家族の歴史としてずっと語り継がれるであろうこの1年。
その間、こうしてブログという形で記録を残せたのは、とても良かったと思っている。


1月。
去年、妻と一緒に行った近所の神社に今年は独りで初詣。
あの時、妻は手を合わせて何を祈ったのだろう。

家族の健康? 世界平和? 願わくば自分の健康を祈って欲しかった。
不信仰者の私はダメだけれど、素直で信心深い妻の願いなら、きっと神様も聞いてくれたはずなのに。

ちょっとだけ家族の居場所は変ったけれど、それでも今年も家族6人(ラッキー含む)、生きて穏やかに新年を迎えられたことは、幸せだと思いたい。

     *

そして今日、1月15日。
長男はセンター試験の1日目。
私が作った材料を自分でキレイに弁当箱に詰めて、元気に出かけた。

2男は、土曜日授業で、のんびりと出かけた。
来年は、彼がセンター試験の本番。

3男は、相変わらずラッキーを追い掛け回して、無邪気に遊んでいる。

昼。妻が倒れた時刻が近づく。

去年のことがよみがえる。
心に迫ってくる。
押しつぶされそうになる。

長男は、センター試験の真っ最中か、あるいは弁当を食べているころだろうか。

いろんなことがあって、いろんなことを感じて、今が過去になり、どんどん思い出や歴史になっていく。

これからもまた、上がったり下がったりを繰り返しながら、たくさんの人に助けられ、家族が寄り添いながら前に進んで行くんだと思う。

     *

激動の1年間を綴ったこのブログも、今日でひと区切りとすることにしました。

もしかしたら、また何か思い立って書くことがあるかもしれませんが、月に1回とか、年に1回とか、そんな感じだと思います。

今まで訪問していただいたこと、そしてコメントを寄せていただいたこと、とても感謝しております。

ありがとうございました。


人気の記事 | 【2011-01-15(土) 13:16】 | Comments:(38)
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人生の坂道 【2011-05-28(土) 23:06】
今日は妻の54回目の誕生日。

30の坂道で合流し

40の坂をあっという間に共に駆け抜けて

50の坂も60の坂も70の坂も80の坂も

ずっと一緒に、ずっとそのまま、

手を取り合って上るものだと

何の疑いもなく、そう思っていた。

いま妻は、閉じられた世界のなかにいて、

考えていることや、感じていることを

言葉として私に伝えてはくれないけれど

だからといって、何もつながっていないという感じでもない。

手を握れば温かな体温が伝わってくるし

目と目で見つめ合うこともできる。

むしろ元気だったころより、深いつながりを感じるときもある。

現代医学の恩恵によって保たれている、

この不思議で微妙な状況のなか、

いまあらためて、心とは何か、愛とは何か、生きるとは何か、

そんなことを深く考えさせられる1日。

被災地では、妻も子どもも失ってしまった人が

復興に向けて、瓦礫を片付けていた。

今日は、朝からずっと冷たい雨が降り続いている。

天気予報を見ると、明日もあさっても雨らしい。

だけど、その次には「曇り」、

その次には「晴れ」マークが並んでいる。

「止まない雨はないし、明けない夜はない」って

どこかで聞いた受売りの言葉を

仕事や家計が苦しかったころ、

妻に話したことがあったっけ。

「でも、冷めない愛は、あるよね?」と言った妻の、

やけに真剣な顔が思い出される。


人気の記事 | 【2011-05-28(土) 23:06】 | Comments:(5)
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