プロフィール

ラッキーパパ

Author:ラッキーパパ
向日葵のように明るかった妻が突然倒れました。5人の子どもたち(T:18、Y:16、K:13、ラッキー:犬1…全員♂・年齢は当時 2016年より猫1が参加)と共になんとか生きています。詳しくは「はじめに」で。

記事テーマ
1ヵ月丸ごと表示(古い順)
メールお待ちしてます

名前:
メール:
件名:
本文:

スポンサーサイト 【--------(--) --:--】
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


スポンサー広告 | 【--------(--) --:--】 | Comments(-)
闘病ブログ村ランキング  人気ブログ・ランキング

2011年の幕開け  【2011-01-02(日) 23:57】
あけましておめでとうございます。

「一寸先は闇」――夫婦そろって病気に倒れた昨年は、まさにその言葉を実感した1年でした。

最近では「一寸先は光」という言葉もよく見かけます。

しかし、そもそも闇だからこそ、そこに何があるか分からない、どんな素晴らしいことが待ち受けているか分からないと捉えることもできるわけですから、なにもせっかくの古言を強引に言い換えなくても、と思います。

一寸先も一分先も闇だけど、でもそれは決して「お先真っ暗」と同じではない、二寸先、二分先には光が溢れているのかもしれないと、感じています。

いろいろと大変なことがあっても、おかげさまでこうして希望のなかで新しい年を迎えることができました。

闇だと思い込んでいたけれど、目が慣れてくるにつれて光が見えてきたりということもあります。

また、闇であったとしても、そこに光が当たれば、思いもよらぬ宝物が見えてくるかもしれません。

希望が見えない、闇だと嘆くよりも、そこにいかに光を当てるかを考えよう――そう思って2011年を前進していきたいと考えております。

     *

元日は、子どもたち3人勢ぞろいで「母様詣」をしました。

110102a.jpg

小春日和の穏やかな日差しのなか、いつものコースをみんなで散歩。

110102b.jpg

それぞれ1人1人交代で車イスを押して100mほどのコースを往復しながら「母子間の秘密の会話」をしたみたいです。


スポンサーサイト
夫婦の時間/想い出 | 【2011-01-02(日) 23:57】 | Comments:(4)
闘病ブログ村ランキング  人気ブログ・ランキング

雑巾がけの練習? 【2011-01-05(水) 23:59】
2011年も本格的に動き出した感じの今日。

仕事初め。それなりに忙しかったけれど、あんまり穏やかな良い天気だったので、去年の今頃そうだったように妻と一緒に散歩したくなり、つい病院に来てしまった。

ところが車イスに乗せたところ、ちょうどリハビリが始まる時間だったらしく、散歩は後回しということで、そのままリハビリルームに直行。

110105a.jpg
作業療法士による「雑巾がけ」の練習。

雑巾がけ、食卓や私の仕事机あたりを拭いていることを思い出しているのかもしれない。

とにかく掃除が大好きな人だから。

110105b.jpg 今度は、立つ訓練。

リハビリを始めたばかりの頃と違って、器械やイスを使わずに、スタッフの支えだけで、そのまま真っ直ぐ立っている。

ずいぶん進歩した感じがする。

リハビリが終わって、少し疲れ気味のようだったけれど、せっかくだから外に散歩に連れ出した。

散歩の間は周りに誰もいないので、気兼ねなくいろんな話ができる。

  もうすぐ1年になるね。
  T(長男)が作ったお雑煮、ちゃんとおいしかった。
  15日はいよいよセンター試験。
  ちょうどあなたが倒れた日だね。
  いま追い込みでがんばってる。
  今年はきっと良いことがありそうな気がするんだ。
  そう思わない?

110105c.jpg

少し寒くなってきたので、早めに散歩を切り上げ、その代わりベランダでしばしノンビリと。

安定期/リハビリ | 【2011-01-05(水) 23:59】 | Comments:(5)
闘病ブログ村ランキング  人気ブログ・ランキング

妻が残してくれた宝物 【2011-01-09(日) 10:36】
妻が倒れて意識を失ってから、もうすぐ1年が経とうとしている。
この期間、私たちは多くの人から助けられ、励まされてきた。
それとは別に、健康保険や医療保険のありがたさも、深く実感させられている。

最初の大手術から、気管切開や胃ろう手術、各種検査、それに長期にわたる入院。今までかかった医療費は、きっと恐ろしい金額になっていると思う。
倒れた直後は、命のことだけが気がかりでお金のことは何も考えていなかったけれど、一命を取り留めたことに安堵したあたりからは、膨大になるであろう医療費のことで心が押しつぶされそうになった。

しかし「高額療養費制度」というのがあり、健康保険料を納めてさえいれば、1ヶ月の医療費がどんなにかかっても、一定額(8万円程度)に抑えられるということを聞いて、どんなにホッとしたか分からない。

5時間を越える大手術は何百万円かかったか分からないけれど、その制度のおかげで、最初の月に支払ったのは十数万円で済んだ。(差額ベッド代など、保険適用外のものは実費となる)

それまでは妻も私も病院嫌いで、子どもたちが高熱を出しても、めったに病院には行かなかったから、相当な額になる健康保険料を払い続けることは、なんだかバカバカしく感じていたけれど、今はしっかりと払い続けていて本当に良かったと思っている。

     *

それから民間の医療・生命保険。
以前は大手の生保に入っていたけれど、数年前から、妻はTさんに紹介された新しいタイプの保険に切り換えていた。
掛け金は以前の半額ぐらいになって、家計的には大助かりだったらしい。
そういうことはすべて妻まかせだったので、どのような内容の保険に入っていたのか、妻が倒れるまで私はほとんど知らなかった。

ただ、加入するときに、「私が死んでも、母子家庭には手厚い保護があるし、子どもたちも苦学してあなたを助けるだろうから、そんなに大きな保障はいらないと思う。それよりも、あなたに何かあったら私は仕事も何も手につかなくなって経済的に悲惨なことになるから、むしろそのときの保障は大きくしておいて欲しい」と、そんなことを言った記憶がある。
半分ジョーダンで、半分ホンネだった。

妻が倒れてから医療保障請求のために加入済みの保険内容を調べてみると、ありがたいことに私と妻の保障内容は全く同じになっていた。
妻は実質的には専業主婦のような立場なので、常識的に考えれば、私が死んだ場合の保障のほうを手厚くしておくのが普通だろうし、保険の営業の人もそういう方向で話を進めるのだと思う。

だけど妻は、私の言ったことをしっかりと受け止めてくれていたのだ。
きっと「自分にもしものことがあったら、この人は落ち込んで何もできなくなる。立ち直るのに相当な時間がかかる」と考えていたのだと思う。

その保障のおかげで、私たち家族は、突然訪れ今なお続く困難のなかにあっても、少なくとも経済的には大きく救われることになった。
もしそれがなかったら、今ごろ私は心身ともに相当なムリを強いられ、共倒れになっていた可能性も少なくないと思う。

10年ほど前、私は仕事で生命保険に関するガイドブックの原稿を書いたことがあったため、貯蓄型の保険といっても、それは保険と貯蓄が一緒になっているだけで、結局保険の部分は掛け捨てになっているということを知っていたから、私たちが入っている保険はすべて、いわゆる「掛け捨て」のものにしていた。

だけど、それは決して「掛け捨て」ではなかったということを、いまあらためて思わされる。必ずしもそれは、こうして給付を受けることになったからということではない。

「掛け捨て」というと、なんだかお金をドブにでも捨てるような、損をしたようなニュアンスがあるけれど、実際は、そのおかげで困っている人が助けられているわけだし、絶望が希望に変ったり、立ち直るまでの準備期間が与えられていると考えれば、それは決してムダでも、捨て金でも、もったいなくもないはず。
私たちが支払っていた保険金は、私たちに何もなかったころは、どこかで困っている人の保障に回っていたということになるのだから。

そう考えると、「掛け捨て」というより、「掛け合い」とか「掛け助け」とでも呼ぶべきものなのかもしれない。
そして実際にいま私たち家族は、多くの人が掛け続けてくれている保険金で、心身ともに救われている。

そうした保険に入っていてくれた妻にも、紹介してくれたTさんにも感謝している。
医療や福祉、保険制度が充実した日本という国で暮らせること、また多くの素晴らしい友人や親族に恵まれたこと、そして、こうした経験を通じて、そのありがたさを実感できたことを感謝している。

子どもたちや、素晴らしい友人関係や、思い出や、妻はいろんな宝物を残してくれたけれど、この保険もその一つだと思う。給付を受ける毎に、妻の心遣いがひしひしと伝わってくる。

「あなたが入っていた保険のおかげで、お金のことはぜんぜん心配いらない。ゆっくりゆっくり療養して大丈夫。でも、そろそろ起きてほしいな。けっこう上達した料理の腕前を見せたいし」――今日も妻に話しかけた。


雑想 | 【2011-01-09(日) 10:36】 | Comments:(8)
闘病ブログ村ランキング  人気ブログ・ランキング

母となった日・父となった日 【2011-01-13(木) 22:40】
今日は、長男の誕生日。

妻が母に、私が父になった日。

19年前の1月13日は月曜日だった。

里帰り出産で、妻は実家のある新潟にいた。

陣痛が始まったのは、たしか1月10日(金曜日)の夕方ごろ。

入院の知らせを聞いた私は、仕事を早めに切り上げて、新幹線で東京から新潟に向かった。

予定日の7日は過ぎていたし、この土日あたりに生まれてくれれば立ち会うことができると期待していたら、その通りになり、生まれる前からなんて親孝行な子だろうと思った。

急がないともう生まれてしまうかも知れないと思うと、時速250Kmで疾走する新幹線もノロノロ運転に思えて、気が焦った。

携帯電話など、影も形もない時代。もちろん、メールで連絡なんてこともできない。

急いで産院に駆けつけると、妻はことのほか穏やかな様子…。

「陣痛、弱くなっちゃった。もう少し時間がかかりそう。ゴメンネ」と、妻は笑った。

「ああ、でも間に合ってよかった。もう生まれているかと思ったから」

     *

結局それ以降、陣痛はどんどん弱まり、翌11日になっても全く生まれる気配なし。

12日昼、やはり変化なし。

夕方、変化なし。

翌13日(月曜日)は朝10時からどうしても抜けられない打ち合わせがあったため、私はそろそろ帰らなければと思っていた。

夜7時頃。寂しそうな不安そうな妻の顔に帰るに帰れずにいると、「あ、来た!」と妻がお腹を押さえながら言った。

どうやら陣痛が始まったらしい。

1時間ぐらい経っただろうか、痛みは次第に強まってきていた。

私は妻に言われるまま、背中をさすったり、水を持ってきたり、オロオロしていた。

看護士さんたちが余裕な感じなので、ちょっとムッときた。

苦しむ妻と、生まれ来る子どもへの期待と、何もできないことへの苛立ちと、迫る終電時刻への焦りなどで、頭の中がぐるぐるしていた。

そうこうしているうちに、いつの間にか終電のタイムリミットは過ぎて、もう帰れなくなってしまった。

こうなった以上は、翌朝の始発に乗り、直接打ち合わせ場所に行くしかないと、腹をくくった。

子どもが生まれ、妻が母となり、私が父となる、その時その場所に共にいたい、ずっとそう思っていたから。

それからも、陣痛は弱まったり、強まったりを繰り返したけれど、なかなか決定的な状況には至らぬまま、時が過ぎていった。

3日間続いたお産で、妻は、精神的にも肉体的にも、もう限界だった。

「お願い、帝王切開にしてもらって」と、ずっと、自然に生みたいと言っていた妻が、そうもらした。

「わかった。ドクターに相談してみる」

妻のようすを説明しながら、私は別室でドクターに帝王切開の是非を打診した。

するとドクターは「それは最終手段にしましょう。赤ちゃんの心音はとてもしっかりしていて元気です。自然に生まれたがっているようです。お母さん、もう少しがんばれるように励ましてあげてもらえませんか」と言って、真剣に笑った。

「わかりました」
自然分娩のほうがハイリスクなのに、自らのポリシーに従ってそう判断した若いドクターを、私は信じようと心に決めた。

とは言っても、私はただ決意するだけで、実際に苦しむのは妻だった。

「T(男の子と分かっていたので既に名前を決めていた)は、自然に生まれたがっているって。元気だって。だからもう少しがんばろう。一緒にいるから」そう言って私は妻を励ました。

「もう限界だって言ったのに! お願いだから、早く切って出してもらってよ!」――私があまりに気軽に「がんばろう」なんて言うものだから、妻は怒って、どなるように私に言った。

それでも私は、ただただ、背中をさすりながら励ますしかなかった。

すると、日が13日に変ったあたりから、急に陣痛が強まり、いよいよ分娩台に移動することになった。

分娩室。

私は、妻の頭のほうに立ち、苦しむ妻の手を握り、頬をさすり、「ヒ、ヒ、フーッ」と、呼吸法のリズムを一緒にした。

目がうつろになりながらも、私と一緒に呼吸法を繰り返す妻。

妊婦教室で聞いてきたあと、一緒に練習した「ヒ、ヒ、フーッ」

「もう、頭が見えて来ましたよ」――看護士さんが言った。

その声で、妻は生き返ったように、目に輝きと自信が戻ってきた。

「もうすぐ、パパになるね」と妻が言った。

「あなたも、もうすぐ、ママだね」

1992年1月13日0時52分。

苦しみや喜びや感謝や感動が交錯するなか、妻と私の長男が生まれた。

じつに3日間に及ぶ難産だった。

出産に立会い、女性・母の偉大さ、生命誕生の素晴らしさを知った。

すべての人が、もちろん私自身も、こうして命懸けで神聖な儀式を経て生まれてきている。

ほんとうにほんとうに、すごいことだと思う。

     *

記念すべきこの日、妻の所にいけなかったのが、少し残念です。


人気の記事 | 【2011-01-13(木) 22:40】 | Comments:(0)
闘病ブログ村ランキング  人気ブログ・ランキング

3男の誕生日に 【2011-01-14(金) 20:42】
昨日の長男の誕生日に続いて、今日は3男の誕生日。

大掛かりだった長男の出産に比べて、3人目は申し訳ないほど気楽な雰囲気の中で生まれた。

14年前の今日、深夜に産気づき、近所の市立病院に連れて行った。

その頃、長男と2男はまだ保育園児だったので、とりあえず一旦家に戻り寝かしつけてから、また出かけようと思った…けれど、2人だけを残していくのもちょっと不安だったので、朝になったら一緒に行こうと様子を見ていたら、朝方5時ごろ「元気な男の子が生まれました」という連絡が入った。

病院の方針で性別は教えてもらえなかったけれど、3人目はきっと女の子に違いないと思い込んでいたので、女の子の名前しか考えていなかった。

朝、長男と2男を連れて病院に行くと、もう妻は腰をかがめながらも歩いていた。

「また、男の子だったね」と苦笑する妻。

「すごいよ、男ばっかり3人も生むなんて。ありがとう」

「名前、急いで考えないとね」

「きっと、神様の作戦なんだと思う。男の子を育てる使命があるのか、女の子を任せられないのか…」

「夫から妻への愛より、妻から夫への愛が強いと男の子が生まれるんだってよ」

「だったら、女の子が生まれてもいいと思うけどなあ…。まあ、とにかくゆっくり休んで。これからタイヘンだから」

初産からちょうど5年。40歳を目前に控えた高齢出産だったけれど、上の2人よりも安産だった。

     *

明日は長男のセンター試験。

そして、妻が倒れた日。

少し寒かったけれど、お気に入りだったダウンジャケットを着せて、40分ほど外を散歩した。

  昨日はTの誕生日だった。
  あなたがママになった日だね。

  今日はKの誕生日。
  あんなに小さかったのに、もう14歳だよ。

  明日はTのセンター試験。
  そしてあなたが倒れた日。

  ちょっといつもより豪華なお弁当を作って
  送り出してやろうかと思っている。

  家の中は去年とあまり変らない。
  ただ、あなたがいないだけ。
  
  もう1年になるんだね。


夫婦の時間/想い出 | 【2011-01-14(金) 20:42】 | Comments:(3)
闘病ブログ村ランキング  人気ブログ・ランキング

1年の区切り 【2011-01-15(土) 13:16】
1年前の今日、昼過ぎ、妻は浴室掃除の最中に倒れたのだった。

あれから1年も経ったなんて、とても信じられない。

あまりにも、いろんなことがあった。

1月。
生死をかけた緊急大手術。その最中に長男はセンター試験。
突然の出来事に、パニック状態になりそうだった私を、たくさんの人が支え、助けてくれた。

子どもたちが思いのほか明るく元気で、普通に日常を生きているのに驚く。
長男曰く 「子どもは適応力が高いから」
2男曰く 「これは何かのメッセージだと思う」
3男曰く 「誰がご飯作ってくれるの?」


2月。
生命が守られたことに安堵しつつ、意識回復を今か今かと待つ日々。
安定したかと思えば、高熱が出たり、下痢をしたりの繰り返し。

妻に任せっきりだった経理の仕事が混乱状態に。
訳が分からないまま請求書等を放置しておいたため、いろいろな方面から督促状が届く。

そんな状況のなか、長男は2次試験に向けて勉強を続けた。
実家から母が家事の応援に駆けつけてくれた。


3月。
気管切開をしたことで感染症のリスクが減り、熱を出すことも少なくなった。
病状は安定したけれど、意識レベルは変らず。

それでも、指が動いたとか、涙を流したとか、ちょっとしたことに希望を見出し、体をさすり声を掛け続けた。
この頃、転院先探しに翻弄される。

会社と家計の経理作業も大変。
税金や保険料、公共料金等は、赤紙(督促状)が届いてから支払うべき内容を知るというパターンが定着。


4月。
意識を失ってから3ヶ月が経過、遷延性意識障害という診断がなされた。
医学的には、意識回復の見込みは極めて低いということ。

22日、不思議な導きで巡り合った今の病院に転院。
しっかりとリハビリをしてくれる所なので希望が見えた。

その一方で私自身が体調を崩し始める。
突然襲うみぞおち辺りの激痛。子どもたちの不安そうな顔。
以前、妻が冷えから来る症状だと言っていたので、妻がそうしてくれたように、子どもたちは私の体をドライヤーで温めてくれた。


5月。
4月までは毎日のように病院に通っていたけれど、車で1時間の所に転院したため、1週間に1~2回程度に。
母も実家に戻り、家事を手伝っていた長男も予備校に行き始めたため、私は仕事と家事と病院通いでオーバーフロー状態。

ついに20日、私自身が胆石からくる胆嚢炎で緊急入院。
奇しくも妻と同じ手術室で全身麻酔による胆嚢摘出手術をした。

10日間にわたる入院中、我が家は母も父もいない状態に。
おまけにちょっとの間も独りにできない分離不安症のラッキーもいるし。
それでも、友人たちが泊りがけで助けてくれた。
この間、妻も栄養補給のための胃ろう手術を行なった。


6月。
手術の時に剃った髪の毛が伸びて、眼を開いていると見た目はほとんど元通りの妻の顔。
もうすぐ帰ってくると思いながら過ごしてきたけれど、しばらくはこのままの状態が続くということも受け入れて、心の準備や、家のこと仕事のことの整理をしなければと、気持ちを現実のほうに切り替えた。

妻の服や化粧品等を整理した。
もちろん、回復への希望は今なお失ってはいないけれど。


7月。
妻は眼を開いているときは、じっとこちらを見つめてくれるので、どうしても話が通じているような気がしてならなかった。
何分も何十分もいろんな話をした。
出会ってから今までの、夫婦の、家族の歴史を振り返り、一緒に懐かしんだ。

会社のほうもようやく平常に戻り、子どもたちも、母親不在のなか、驚くほど普通に明るく暮らしていた。
以前から会話の多い親子だったけれど、部活のこと、勉強のこと、将来のこと、人生のこと、世界情勢のこと、そして母のことなど、より一層、話し合う時間が増えた。

友人が有志に声をかけて千羽鶴を折ってくれた。勇気づけられた。


8月。
異常な暑さが続く。
妻が大切にしていた庭の畑で、トマトやキュウリやゴーヤやナスやピーマンを収穫。
ふとしたキッカケでいろんな場面での妻の姿が目に浮かび胸が苦しくなる。
目の前に妻がいるのに、そこにはいないような感覚。
妻のことがどんどん思い出になってしまっているようで、つらかった。

ラッキーと散歩をしながら、つい独り言のように妻に話しかけている自分に気がつき、うろたえてしまう。
暑さのせいか、寂しさや哀しさのせいか、幻想が迫ってきそうな感じだった。


9月。
少しずつ涼しくなったので、病院に行く度に妻を車イスに乗せて散歩を。
一緒に歩きながらいろんな話をした。

妻が住む夢や心の世界と、子どもたちのいる現実の世界があって、私はそこを行ったり来たりしているような感覚。
精神的に不安定になりがちな私を、多くの友人が励ましてくれた。


10月。
ブログを通してコメントやメールを寄せてくれる人たちと交流するなかで、不思議と元気を取り戻すことができた。
人はみな、それぞれ哀しいことやつらいことを抱えながら、それと共に生き、乗り越えたり挫折したり、また立ち上がったり…を繰り返しながら前に進んでいるんだと思った。

その一方で、このブログを通して、私自身が全く無関係な人と間違われたりして、中傷されたことがあった。
勝手に思い込んで平気で人を傷つける人がいるかと思えば、見ず知らずの私たち家族のことを心から励ましてくれる人もいる。
人間っていろいろだねと、妻とも、子どもたちとも語り合った。


11月。
妻と一緒にラッキーを連れて毎日のように散歩をした森の木が色づき、やがて葉が散り始めた。
この秋は、いつになく寂しさがこたえたけれど、無邪気にはしゃぐラッキーが、私を癒してくれた。

妻は、首がすわったり、手や脚やお腹の筋肉に力が入るようになり、少しずつではあっても、リハビリの効果が出てきているようすだった。


12月。
クリスマスも、年越しソバも、男たちだけで祝った。
とにかくすさまじい1年だった。

子どもたちの子どもたちの子どもたちの、そのまた子どもたちへと、我が家の家族の歴史としてずっと語り継がれるであろうこの1年。
その間、こうしてブログという形で記録を残せたのは、とても良かったと思っている。


1月。
去年、妻と一緒に行った近所の神社に今年は独りで初詣。
あの時、妻は手を合わせて何を祈ったのだろう。

家族の健康? 世界平和? 願わくば自分の健康を祈って欲しかった。
不信仰者の私はダメだけれど、素直で信心深い妻の願いなら、きっと神様も聞いてくれたはずなのに。

ちょっとだけ家族の居場所は変ったけれど、それでも今年も家族6人(ラッキー含む)、生きて穏やかに新年を迎えられたことは、幸せだと思いたい。

     *

そして今日、1月15日。
長男はセンター試験の1日目。
私が作った材料を自分でキレイに弁当箱に詰めて、元気に出かけた。

2男は、土曜日授業で、のんびりと出かけた。
来年は、彼がセンター試験の本番。

3男は、相変わらずラッキーを追い掛け回して、無邪気に遊んでいる。

昼。妻が倒れた時刻が近づく。

去年のことがよみがえる。
心に迫ってくる。
押しつぶされそうになる。

長男は、センター試験の真っ最中か、あるいは弁当を食べているころだろうか。

いろんなことがあって、いろんなことを感じて、今が過去になり、どんどん思い出や歴史になっていく。

これからもまた、上がったり下がったりを繰り返しながら、たくさんの人に助けられ、家族が寄り添いながら前に進んで行くんだと思う。

     *

激動の1年間を綴ったこのブログも、今日でひと区切りとすることにしました。

もしかしたら、また何か思い立って書くことがあるかもしれませんが、月に1回とか、年に1回とか、そんな感じだと思います。

今まで訪問していただいたこと、そしてコメントを寄せていただいたこと、とても感謝しております。

ありがとうございました。


人気の記事 | 【2011-01-15(土) 13:16】 | Comments:(38)
闘病ブログ村ランキング  人気ブログ・ランキング

最近の記事+コメント
全ての記事(新しい順)
訪問者数(2010年1月~)
闘病ブログ村ランキング

人気ブログ・ランキング

順位が上がるとヤル気が出ます!
    
お気に入りリンク集
応援サイト
shirayukihimepj.png
RSSリンクの表示
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。